いとー先生のブログ
「利己」と「利他」
例えば店のミーティングなどで皆から意見が出ないで沈んだ感じになる。
その時に場の雰囲気を盛り上げようとする人、この方は「利他」ですね。
反対にそのような雰囲気でも黙ったままで放っておく人、これは「利己」でしょう。 自分のことだけで他を思いやることをしていない行為、利己と利他にも大小があって、ボランティアや人助け、という大きな分かりやすい利他もありますが、会議で発言をしたり、場を盛り上げるという小さな利他もあるのです。
その人、その店、その組織でそれぞれの価値観がありますが、NEXTでも書きましたが、「どういう基準で自分が生きているのか」と言うぐらいの「生き様の基準」のようなものだと思えばいいのですけれども。
例えば、すごく簡単な話しをしますと、価値観と言うものに「上中下」があるとします。
「下」というのは、三段階で一番下が「下」ですよね。
「下の価値観」というのは、「損か得か」で物事を考える価値観、損得で物事を考える。
損得で物事を考える時というのは、これをやったら損、これをやったら得、得だからやろう、損だからやらないでおこうみたいな、損得で考える価値観。
これは、悪いというわけじゃないんですよ。
ただ、こういう生き方をしていた場合には、周りに集まってくる人というのは、損得で考える人が多く集まってくるようになるわけです。
「浅く短い付き合いの人」が多くなりやすく、自分が順調なときはいい、だけど、自分が調子悪くなったときはパーっと蜘蛛の子を散らしたように人が離れていくんですね。
だから、損得というのは、上中下でいうと下なんですね。
「中」の価値観に「善か悪か」という価値観があります。 善悪という価値観はですね。
これは悪くはないです。
ただ、善悪という価値観は難しい部分がありましてね。
正しさを求める。
モノゴトを判断するとき、これは善、これは悪、これは正しい、これは間違い、という判断をする。
判断するリーダ―自身が、人物ができてる人、あるいは器の大きい人だった場合にはいいんですが、器の小さい人、あるいは言い方変えると、心の狭い人だった場合に、非常に寄り付きにくいですね。 例えば、そういう人が上司になった場合、正しいことを言っているけれども何か腹が立つ、みたいなね。
そんな上司いるでしょう! 正しくっても何か言い方が腹が立つ、みたいな場合がありますよね。
「一番上」の価値観に、その人の行いが「美しい」か、あるいは「醜いか」という価値観があります。
この美しいか醜いかという価値観というのは非常に永い目で観た価値観ですね。
日本の場合非常にいい文化をもっていて「武士道」というものがありますね。
一時、「国家の品格」という本が売れました。
いい本ですね。
美しい行いというのを重要視しています。
昨年、「歴史人物に学ぶ」という講義をしました。リーダーの人向けにするんですけれどもね。
歴史人物に学ぶという講義ですから、ボクも歴史のことをいろいろ調べるわけですね。
そうすると、日本の歴史の中で武士道というのは非常に優秀な考え方ですね。
明治の頃の話を読んでいると、明治維新のちょっと前ぐらい、江戸時代が終わる頃ですね、そのころの話しを読んでいると、外国(オランダだったと思いますが…)から来た人が、日本の民族というのはすごいと。
何がすごいのかというと、例えば、何か悪いことをしたときに、自分で自分の腹を切って始末をつけることができると。
これはほかの国にはなかったらしいです。
恥ということを非常に重んじる文化で、例えば、何か自分が悪いことをしたときに、「お前はいけないことをした奴だ、切腹だ!」と言われたら、そのまま家に帰って自分で腹を切ってでも始末をつける。当時の外国の場合は逃げるらしいですね。
逃げて捕まらなければラッキーみたいな感じでね、逃げるわけですよ。
ところが、日本人は自分で自分のことを始末することができる。
それはなぜなのかというと、逃げて命が助かるよりは、「あいつは恥ずかしい奴だ。」と言われることの方が生きてるよりも辛いことだから、だから腹切ってでも、自分で自分の始末をつける。
こういう文化を持った民族というのは日本人ぐらいだったんですね。
これはね、日本人が美しい行いができているかどうか、ということに対しての高い価値観というのを持っている民族だという事なんですね。
そして、このバリュー=価値観をしっかり魂の底に持っているリーダーの行動は終始一貫していてブレナイという事になるんですね。
なぜなら価値観というものはその人の行動そのものだからです。
例えば、道にゴミが落ちているとします。
下の場合 = 拾わない(利己) 中の場合 = 拾うが拾わない人を心の中で責める(まだちょっと利己) 上の場合 = 拾い続けて人に感動を与え 感化されてゴミを拾う人が続出する(利他) こんな具合です。